1935年7月16日、和歌山県生まれ。
6人兄弟(男3人 女3人)の末っ子。
高校在学中に母が病に倒れ、17歳で家業のよろず屋を継ぐ。兄が戻ったこともあり、経営を兄に任せ、同志社大学に入学。
卒業後、遅れを取り戻すために飲食業と心に決め、寿司の名店で1年間修業。
1963年、大阪十三にて4坪半の寿司店「がんこ」を創業する。2年後に106席の大型寿司店を開店し、注目を浴びる。
現在は、がんこフードサービスの会長を務める傍ら、大阪「平野郷屋敷」や京都「高瀬川二条苑」、三田大原「三田の里」、和歌山「六三園」といった貴重な文化的遺産を生かす事業も行っている。
社団法人日本フードサービス協会理事、社団法人大阪外食産業協会相談役理事ほか公職を多数兼務。
最後にバカ正直のエピソードをひとつ。これは、まだテイクアウトの店を24店舗まで広げた時の話である。当時、海温が上昇し海苔の出来が悪くなった。不作だ。小嶋氏の記憶でいえば、年間48億枚のところが、その半分も採れなかったという。市場に粗悪品が出回った。「がんこ」は年間で購入していたため、影響は受けなかった。小嶋氏は胸をなで下ろす。その一方で、海苔の価格は日に日に高騰する。
数倍になったと、小嶋氏は振り返る。「市場に出回っているのは、質が劣る普段なら使わない薄茶色やグレーのような海苔ばかりです。狭い業界ですから、うちが質のいい海苔を持っていることを聞きつけ、海苔の専門業者が次々にやってきました。彼らが提示した金額は80円。仕入れた価格は17〜18円ですから4倍です。このときはさすがに気持ちが揺らぎました(笑)。わたしどもと同じクラスの店では、みんな粗悪品を使っていましたから、高級品となったそんないい海苔を使う必要もなかったからです」。
だが、ここでも本業を忘れてはいけないとバカ正直ぶりを発揮した。「時価80円の海苔を使った巻き寿司を85円で、売っているようなもんです。行列ができるんちゃうかと思っていたんですが、」。客の反応は、期待するほどではなかった。「せいぜい10%アップでしたな。がっかりしました。世間の人は分かってくれへんのやと思うて」。
ところが、この反応は予期せぬときに返ってきた。「それから数年経ち、魚を食べてはいけないというおふれが厚生省から出回ったんです。完全な間違いやったんですけどね。魚を食べたらあかんとなれば寿司屋はたいへんです。知り合いの魚屋もしばらく店を閉めるといわはりました。でも、そんなピンチのときに、お客様がやってきてくれはったんです。なぜですかって聞くと、『海苔があかんなったときも、おたくはちゃんとした海苔を使って値段も変えず商売したはった。そういう信用のおけるお店やから。寿司好きが何カ月も寿司を食べへんわけにもいかんからなぁ』、そういうておいしそうに寿司を召し上がってくれはったんです」。
「信を得る」という言葉がある。小嶋氏は母の背と同様に、この言葉を追いかけてきたのかもしれない。なぜなら、この四文字は小嶋氏の母もまた追いかけた言葉に違いないからである。