米M和英
1943年12月1日。中国煙台で生まれる。終戦とともに日本に戻り、漁業が盛んな鳥取の漁師町で少年期を過ごす。
兄弟は男女合わせて6人。その下から2番目。
長男の豪氏とは12歳、離れている。
高校卒業後、長男豪氏に呼ばれ長崎に。1964年、豪氏と共に株式会社「浜かつ」を設立。
1965年、取締役就任。
1976年、株式会社リンガーハット代表取締役社長に就任。
2005年、会長に就任するとともに翌2006年、社団法人日本フードサービス協会会長に就任。
2008年、ふたたび社長職に就き、事業の立て直しを図る。
2009年11月、外食産業の振興を評価され「藍綬褒章」を受章。
1943年12月1日。中国煙台で生まれる。終戦とともに日本に戻り、漁業が盛んな鳥取の漁師町で少年期を過ごす。
兄弟は男女合わせて6人。その下から2番目。
長男の豪氏とは12歳、離れている。
高校卒業後、長男豪氏に呼ばれ長崎に。1964年、豪氏と共に株式会社「浜かつ」を設立。
1965年、取締役就任。
1976年、株式会社リンガーハット代表取締役社長に就任。
2005年、会長に就任するとともに翌2006年、社団法人日本フードサービス協会会長に就任。
2008年、ふたたび社長職に就き、事業の立て直しを図る。
2009年11月、外食産業の振興を評価され「藍綬褒章」を受章。
別館浜勝(現:卓袱浜勝)
知事の秘書を通し、「県庁の食堂がいま一つだから、浜かつさんやりませんか?」、そんな打診が舞い込んだ。豪氏は迷わず、「やる」と答え、片腕の米M氏を送り込んだ。米M氏20歳のことである。
県庁の職員数は約800人。コックや栄養士を雇い、カレーライスなどメニューも増やした。「来店されるのがおよそ400人、残りの人たちは弁当です。県庁の1階から6階まで、ワゴンに弁当を詰めて売って回りました」。
1食50円。仮に、50円を現在の貨幣価値に置き換え、500円とすると1日40万円を売上げていたことになる。この県庁食堂を受託したことで、事業は極めて安定したのではないか。1日40万円は、それを物語る数字といえるだろう。
一方、この時、米M氏は20歳の若さで職人やパートを20〜30人動かしている。こちらの数字は、米M氏の秘めた経営力を表す数字といえるのではないだろうか。
ここで、整理しておく。リンガーハットの前身は、すでに述べた「浜かつ」というトンカツ専門店である。
昭和37年、1962年に長兄、豪氏が創業。2年後には株式会社「浜かつ」を設立(のちに株式会社浜勝に商号変更)。米M氏が経営に参加するのは1962年だから、米M家が長崎に着いた年に、豪氏は「浜かつ」を開いたことになる。兄弟たちもそれを支えた。
一方、豪氏の事業アイデアは尽きることがなかった。スーパーで「肉まんと餃子の店」を開業。米M氏がその担当になる。<いけす料理店「郷土料理別館浜勝」><「鉄板焼きとすき焼きの店浜勝」>など次々と新業態にもチャレンジする。そんな「浜かつ」の、また豪氏の<ビジネス観>を揺るがす出来事が起こる。
時は1970年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催された。